Se connecter「返すとは、なんじゃ」
本殿の屋根の上に、小さな女の子が座っていました。
夕日を背にしているせいで、輪郭が金色に滲んでいました。
白い着物の裾から、裸足の足首が二本、ぶらりと出ています。
七つか八つくらいでしょうか。
白い着物を着て、足をぶらぶらさせています。
逆光でよく見えないのに、笑っているのだけは分かりました。
蝉が鳴きやんでいました。
風も止まっていました。
境内の空気だけが、水の中のように重くなっていました。
「……
「ほかに誰がおる」
「そなたの家の者は、代々わしに供物を上げてくれておる。祭りの晩にいちばんよい酒を置いていくのは、そなたの祖母じゃな。あれは気が利く」
女の子は、指を折って数えるような仕草をしました。
「一ノ瀬の家とは、もう六代の付き合いになる」
女の子はひらりと屋根から飛び降りて、私の前に立ちました。
頭ひとつ分どころか、二つ分は小さいのです。
それなのに、その子の前に立っていると、膝が震えました。
「よう来たな、一ノ瀬の娘。そなたの家には世話になっておる」
「あの」
「どうじゃ」
女の子は、胸を張りました。
「うまくいったであろう」
私は、言葉が出ませんでした。
褒めてもらえると思っている顔でした。
夏休みの自由研究を親に見せる、子どもの顔です。
「四つに分けた。わしがやった」
その子は得意げに言いました。
悪びれるどころか、褒められるのを待っている顔でした。
「……どうして、そんなことを」
「あの男の魂の緒が細かったからじゃ」
女の子は指を一本立てて、それを見せてきました。
「ほつれておったのよ。毛羽立って、あと数年で切れるところじゃった。二十を迎える前にな」
結守さまは、両手で細い糸を引っぱるような仕草をしました。
ぷつん、と口で言いました。
子どもが遊びで出すような、軽い音でした。
息が止まりました。
和樹くんの体が弱かったこと。
病院で何度診てもらっても原因が分からなかったこと。
中学二年の夏、お祭りの準備中に倒れたこと。
あの日、提灯を運んでいた和樹くんは、参道の真ん中で崩れるように倒れました。
私が保健の先生を呼びに走って、戻ってきたときにはもう目を開けていました。
「大丈夫、いつものだから」と和樹くんは言いました。
いつものだから、と。
その日から私は、彼の隣を歩くようになったのです。
全部、そういうことだったのです。
「じゃが、わしに命を延ばす力はない」
その子は、少しだけ声を落としました。
「運命を書き換える力もない。わしにできるのは、縁を結ぶことだけじゃ」
「じゃから考えたのじゃ。おぬしらが願ったあのときな」
結守さまは、指を四本立てました。
「一本の緒に重さがかかりすぎるのなら、緒を増やせばよい。荷を分ければ、どの一本も切れぬ」
そして、また胸を張りました。
「縁を結べるということはな、結び直せるということでもある。一本の緒を四本に縒り分ければ、一本にかかる重さは四分の一じゃ」
「四つに分けた。これで、死が四度来るまで、あれは死なぬ。──まぁ、四人に分かれたというのは、わしが思ったのと少し違うがな」
死が、四度。
その言い方が、耳の奥にこびりつきました。
四という数を、この神さまは縁起で選んだのではないのです。
必要な回数として、数えたのです。
私は、その場に座り込みそうになりました。
「それは」
声が震えました。
「それは、和樹くんを、殺したのと同じです」
女の子は、きょとんとしました。
本当に、心の底から分からないという顔でした。
「なぜじゃ。生きておるぞ。それも、四人もじゃ」
その声には、嘘も皮肉もありませんでした。
だから余計に、足元が抜けるような気がしました。
「四人じゃ駄目なんです!」
叫んでから、自分の声の大きさに驚きました。
境内が、しんとしていました。
私の声だけが拝殿の壁に当たって、返ってきました。
結守さまは、首をかしげました。
「あの人は、一人でした」
「今も一人じゃ。四つに分けても、元は一本の緒じゃ」
「でも、別々に歩いて、別々にごはんを食べて、別々に私に話しかけてくるんです!」
「うむ。四倍じゃな」
結守さまは、うれしそうにうなずきました。
「よいことではないか」
「そなた、あの四人が嫌いか」
息が詰まりました。
「……嫌いじゃ、ないです」
「では、何が困る」
答えられませんでした。
困っているのに、その理由を言葉にしようとすると、どこにも足がつかないのです。
あの四人は優しくて、まっすぐで、全員が私を大事にしてくれています。
嫌いになる理由なんて、ひとつもありません。
それが困るのだと、このときの私は、まだ言えませんでした。
「おかしなことを言う」
私は、この神さまを恨むことができませんでした。
目の前にいるのは、私たちの願いを聞き届けて、三日三晩考えて、自分にできる精いっぱいのことをした神さまです。
しかもそのおかげで、和樹くんの命は助かっているのです。
和樹くんは死なずに済みました。
私が願ったとおりに、長く暮らせるようになりました。
それなのに私は、返してくださいと叫んでいるのです。
そして、私にはいちばん残酷な言葉を、いちばん優しい顔で言ったのです。
「わしは、そなたの願いを叶えたのじゃ」
六月の終わりに、大きいものが一つ、なくなりました。その日も、私はいつものように記憶を数えていました。新しいものから、古いものへ。五月の縁側。四月の教室。三月の話し合い。正月の初詣。十二月の手袋。文化祭の後夜祭。夏の川。八月の祭り。三年前の坂道。そこで、手が止まりました。坂道は、覚えています。学校の裏の、銀杏が落ちる坂です。夕方でした。告白されました。——あのさ、俺、澪のことが好きだ。言葉も、覚えています。右手の親指で人差し指の付け根を掻いていたことも覚えています。私は、はいと答えました。それから、三年間。三年間、何をしていたでしょうか。手を繋ぐまでに半年かかりました。初詣に行きました。映画を観ました。祭りに行きました。それだけです。いえ、それだけのはずがありません。思い出せるのは、その四つだけです。三年間で、四つです。いえ、それだけのはずがありません。三年です。千日以上あったはずです。千日分の、何かがあったはずなのです。出てきませんでした。布団の中で、私は一時間ほど探しました。探して、見つからないということが分かっただけでした。次の日、私は久遠くんに聞きました。資料室でした。ノートを広げているところに、私は座りました。「久遠くん」「ああ」「変なことを聞いてもいいですか」「いい」私は、一度息を吸いました。「私、本当に和樹くんと付き合っていたんでしょうか」久遠くんのペンが、止まりました。顔は上げませんで
次の日、私は資料室に行きました。土曜日でした。誰もいないと思っていたのですが、四人とも来ていました。机の上に、全部が並べてありました。誰かが呼んだわけではありません。四人とも、私が来ると思っていたのだと思います。久遠くんのノートが四冊。幸也くんの録音を書き出した一覧表。新太くんのアルバム二冊。「座ってくれ」久遠くんが言いました。「昨日のことで、確認したいことがある」「はい」「今日、俺たち四人の顔を見て、見分けられるか」私は、四人を見ました。和樹くん。新太くん。幸也くん。久遠くん。「……見分けられます」「間違えそうになるか」「いえ」「そうか」久遠くんは、うなずきました。「昨日は、たまたま口が滑った可能性もある。だが、可能性が高いのは別のほうだ」この人は、こういうときに希望を先に置きません。置いてから潰すほうが残酷だと知っているからです。「増えたんだと思う」久遠くんは、静かに言いました。「君の中の偽物が、また一つ増えた。増えた分、押し出されたものがある。昨日出たのは、その一つだ」「……はい」「それで、聞きたいことがある」久遠くんは、机の上のノートに手を置きました。「これは、役に立っているか」私は、答えられませんでした。「正直に答えてくれ」「……役に立っています」「どう役に立っている」「これがあれば、忘れても大丈夫だと思えます」言いながら、自分でも気づいていました。私は、安心したかっただけなのです。久遠くんは、しばらく黙っていました。
六月に入りました。記録は、順調に積み上がっていました。久遠くんのノートは四冊目です。幸也くんの録音は九時間を超えました。新太くんの写真は百八十枚を印刷して、アルバムに整理していました。和樹くんは、木曜日ごとに私の話を聞いていました。積み上がるほど、私は安心していました。これだけあれば、大丈夫だと思っていたのです。ノートの厚みも、録音の時間も、写真の枚数も、全部が数字で増えていきます。増えているものを見ていると、減っているもののことを一時忘れられました。その日は、金曜日でした。五人で四組の教室にいました。雨が降っていて、外に出られなかったのを覚えています。誰かが飲み物を買ってくると言い出して、じゃんけんになりました。六月の教室は、雨の日に独特の匂いがします。上履きと、湿った制服と、埃の匂いです。その匂いのことを、私はまだ覚えています。私は、その様子を見ていました。新太くんが負けて、文句を言っていました。幸也くんが笑っていました。久遠くんは読んでいた本から顔を上げませんでした。和樹くんが、財布を出そうとしていました。「あ」私は、声をかけました。「お金なら、私が出します」「いいって」和樹くんが言いました。「じゃんけんで負けたやつが買いに行くだけだから」私は、うなずきました。そして、こう言いました。「新太くん、ありがとうございます」教室が、静かになりました。私は、最初、何が起きたのか分かりませんでした。四人が、私を見ていました。四人とも、同じ顔をしていました。「……澪ちゃん」幸也くんの声が、かすれていました。「今、誰に言った?」私は、答えられま
一週間経っても、和樹くんは何もしませんでした。久遠くんのノートは三冊目に入っていました。幸也くんの録音は、合計で六時間を超えていました。新太くんの写真は百枚を過ぎて、印刷して整理しはじめていました。和樹くんだけが、手ぶらでした。最初に言ったのは、新太くんです。放課後の資料室でした。ノートを広げている久遠くんの横で、新太くんが写真を並べていて、幸也くんが録音の整理をしていて、和樹くんは窓際に立っていました。「和樹」「ん」「お前はどうするんだ」部屋が、静かになりました。「新太」「責めてるんじゃねえ。ただ、お前、何もしてねえだろ」和樹くんは、窓の外を見たままでした。「……何をすればいいのか、分かんないんだ」幸也くんが、助け船を出しました。「じゃあ、俺の録音手伝えば」「それ、幸也のだろ」「そうだけど」「久遠のノートも、新太の写真も、それぞれのだろ」和樹くんは、そこで初めてこちらを向きました。「俺のを作らないと、意味ないんだよな」その日の帰り道、私は和樹くんと二人になりました。誰かがそう仕向けたのだと思います。たぶん久遠くんです。川沿いの道を、和樹くんは私の歩幅に合わせて歩いていました。いつもどおりです。「和樹くん」「うん」「何か、考えてることありますか」和樹くんは、しばらく黙っていました。それから、こう言いました。「俺、澪と何もしてないんだよ」「え」「久遠は事実を書くだろ。日付とか、病院の名前とか。幸也は澪の声を録るだろ。新太は場所を撮る」和樹くんは、指を折るように言いました。「じゃあ俺は、何を残せばいい?」「それは」「考えたん
新太くんから連絡があったのは、それから三日後でした。久遠くんがノートを始めて、幸也くんが録音を始めて、それでも新太くんは何も言いませんでした。朝、下駄箱のところで待っていました。三日のあいだ、この人が何を考えていたのかは分かりません。ただ、朝の顔を見て、答えを出してきたのだと分かりました。「今日、付き合え」「どこにですか」「歩く」それだけでした。新太くんの手には、カメラがありました。首から下げるひもが新しくて、それだけ買ってきたのだと分かりました。携帯ではありません。父親のものだという、古いデジタルカメラです。首から下げて、歩きにくそうにしていました。「写真、撮るんですか」「撮る」「何をですか」「場所」新太くんは、前を向いたまま言いました。「人は忘れる。記憶も消える。でも、場所は消えねえだろ」乱暴な理屈です。建物は壊れますし、道も変わります。それでも、この人が一日かけて出した答えなのだと思うと、何も言えませんでした。最初に行ったのは、学校の裏の坂道でした。三年前の秋、和樹くんが告白した場所です。今は五月で、銀杏は青い葉をつけていました。「ここでいいのか」「はい」「どのへんだ」「……三本目の木の、少し先です」新太くんは、しゃがんで、下から一枚撮りました。それから立って、もう一枚撮りました。撮り方は、お世辞にも上手ではありませんでした。「銀杏、写るか」「写ってます」「秋にも撮る」新太くんは、そう言いました。「落ちてたんだろ、銀杏」私が話したのは、一度だけです。三年前の秋に告白された、銀杏が落ちていた、と。それ
幸也くんのやり方は、まったく違いました。土曜日の昼、うちの縁側に来て、机の上に携帯を置いただけです。「これ何ですか」「録音」「何を録るんですか」「澪ちゃんの声」あまりにも軽い言い方だったので、私はしばらく意味が分かりませんでした。幸也くんは、あぐらをかいて、麦茶を飲んでいました。「俺、久遠みたいなのは無理だからさ。日付とか場所とか、書けないし」「じゃあ、どうするんですか」「喋って」「何をですか」「なんでもいいよ」幸也くんは、庭のほうを見ていました。せかす気はない、という顔でした。この人が私をせかさないのは、初めてかもしれません。いつもは沈黙を三秒も置かない人です。困りました。何を喋ればいいのか分かりません。久遠くんのときは質問があったので答えるだけでよかったのです。「じゃあ、質問する」幸也くんが、録音を開始しました。「和樹の、どこが好きだったの」私は、しばらく黙っていました。携帯の画面で、赤い印が点滅していました。「……何もしないところ、です」「うん」「どこかに連れて行ってくれるわけでもないし、面白い話をするわけでもないし、私が落ち込んでいても、大丈夫かとも聞かないんです」庭で、蝉が鳴きはじめていました。五月なのに、気の早い一匹です。その音が、録音に入るのだろうかと、少しだけ考えました。入ってもいいと思いました。「ただ、隣にいるだけなんです」「うん」「それが、いちばんよかったんです」喋りはじめると、止まらなくなりました。和樹くんは、麦茶のグラスに氷を三つ入れること。缶詰のさくらんぼが好きで、最後に食べること。お箸だけ右手なこと。







